小学生のころに集めていた便せん、シール、消しゴムなどの文房具。使うのがもったいなくて、大事に取っておくタイプだった。
私の実家は、車がないとどこにも行けないような過疎地にある。週末にわずかながら発展した隣町へ行くときは、「ファンシーショップが入ってるショッピングセンターに寄りたい」と母にせがんでいた。
何も買わないこともあったけれど、お店の中を眺めて回るだけでも楽しかった。新しい物を見つけ、ラインナップと値段を把握する。優先順位とお小遣いの額を考慮して、何を買おうか組み立てる。そして少しずつ買い足していく。
しかし、物を気に入って買っていたはずなのに、そのうち集めることが目的になっていく。そして数が増えるごとに、一つひとつに対する思い入れは薄れていく。買うだけ買ってしまい込んで満足して終わり。勉強机の中は使わない物でいっぱい。自分で買った物だけでなく、お土産やノベルティでもらった物も取っていたので、溜まる一方だった。
年齢が上がると徐々に興味も失い、ある日「何でこんなことやってるんだろう」とやっと我にかえった。かといって使う予定も捨てるつもりも無く、せっかく集めたのだからとそのまま取っておくことになる。父には「しみったれた性格だ」とよく言われた。
成人しても服やら本やらで同じことを繰り返していたが、今はさすがに懲りた。そこまで何かに入れ込む余裕は、体力的にも精神的にも時間的にも金銭的にも無い。過剰に物を持つと考慮すべきことが増えるので面倒くさい。分不相応な物を持っていても不便なだけで愛着は持てない。やめられたのはそんな前向きでない理由が大きいが、こころは穏やかになる。
数年前、実家にため込んでいたものを処分する機会が訪れた。弟が家を建てるため、私と妹の居住していた離れを壊すことになったのだ。二人とも実家を出たあと十年以上放置されていた。むしろ実家を倉庫として扱っており、いらない教科書や家具を送り込んでいた。
年末年始の帰省時に片付けを決行した。勉強机の引き出しを開けてみると、古いボールペンやら劣化した消しゴムやらがごろごろ出てくる。しかし、便せん、ノート、シール等は使えそうだ。これらは紙袋に分けておく。他にはどうしても取っておきたい物だけ家へ送ってもらうことにして、残りはゴミ袋へ放り込んだ。冬の田舎での作業は寒かった。
一通り片付けを終えたあとで、娘に紙袋の中身を見せた。いる!とのことだったので、可愛いデザインのものは送ってもらうことにした。比較的シンプルなデザインの便せんは、私の母が使うことになった。
前置きがかなり長くなったが、三十年近い時を経て我が家にやってきた便せんを娘は使っている。私とは真逆で、遠慮無く豪快に使うタイプだ。日々手紙を書き、シールで飾り立てている。
そして、実家の母が米や野菜やプレゼントを送ってくれるとき、同封された手紙にはかつて私の物だったシンプルな便せんが使われている。ここへきて活躍する便せん。日の目を見てよかった。
物が与えられた役目を果たすのを見ていると、大事に使い倒したあとお礼を言ってお別れするのは、物にも自分にもサプライチェーンに連なる全ての人々にとっても一番嬉しいことなのではないかと考えた。
私が使わなかった分を、変わりにどんどん使って欲しいと思う。