あかねの日記

惰性で続けるブログ

読書『罪と罰』

ドストエフスキーの『罪と罰』(岩波文庫)を読み終えた。『カラマーゾフの兄弟』(同じく岩波文庫)に比べると格段に読みやすかった。

『カラマーゾフの兄弟』(1927年発刊)は文体が古風で、レイアウトも小さな文字がびっしり詰まっており、読めども読めどもなかなか進まない感じだった。一方の『罪と罰』(1999年発刊)は現代的な文体になっており、大きめのフォントとゆとりのあるレイアウトで大変目に優しく、読んだ分だけ進む手ごたえがあった。

巻頭に登場人物一覧があるのも親切。それを元に人物相関図を描いてから読み始めた。しかし載っていない人もいるので、彼らを付け足していくうちに図がごっちゃごちゃになってしまった。

 

主人公のラスコーリニコフ(以下ラスコ)は、盛大に自意識をこじらせた、多分に面倒臭い青年である。大学を除籍となり、家庭教師の働き口もなく、粗末な屋根裏の賃貸部屋に六カ月も引きこもっている。服はボロボロで、お腹はペコペコ。故郷のお母さんが年金を手形にして借りたお金を仕送りしてもらっているが、それも底をついたため質屋に通うようになった。

そのうちにラスコは、質屋の強欲ばあさんを殺害し、自分の新しい人生を始めるための資金を得るという脳内シミュレーションを繰り広げるようになる。(そしてそれは正当なことだと考えている。)ある日、その計画がうっかり上手くいってしまい、さらに強欲ばあさんを訪ねてきたその妹まで殺害してしまう。ラスコは運よく誰にも見られず現場を離れることに成功し、嫌疑は下の階で作業をしていたペンキ屋に掛けられる。

しかし、もともと病的に神経質だったラスコは、この事件をきっかけに疑心暗鬼となり、ますます精神を病んでいく。事件以外にもラスコの身の上には様々な厄介ごとが降りかかる。(というかラスコ自身が引き起こしたりややこしくしたりしている。)妹ドゥーニャの婚約問題、その妹に恋心を抱きパワハラ・セクハラ行為を行ったこともある元雇い主からの嫌がらせ、酒場で知り合ったアル中おじさんマルメラードフの事故死、その娘である娼婦ソーニャとの交流、道化のような予審判事ポルフィーリィとの心理戦、などなど。

この小説の文学史上における功績だとか、社会的な意味づけだとか、哲学的・思想的・宗教的な主題だとかはよく分からないが、主人公が自らの悪事に対する良心の呵責に苛まれ、精神的に疲弊していく様子が微に入り細を穿ち描かれており、罪悪感から逃れようと支離滅裂な言動をしたり、罪を隠そうとして挙動不審になったりするのは、古今東西そんなに変わらないものだと思った。

 

それにしても、主人公のラスコはひねくれた性格をしている。友人には「病的な自尊心の持ち主」だの「陰気で、気むずかしくて、傲慢で、気位の高い男」だのと評され、息子LOVEな母からでさえも「ゆううつ病で、気むずかしやで、かっとなりやすく、気位が高くて、そのくせ心は大きい」と言われる始末。

読んでいても、天邪鬼な態度のオンパレードである。自分から友人ラズヒーミンを訪ねておきながら、いざ会ってみると急に逃げ出したり、心配のあまりわざわざ住処を探し出して看病してくれたラズヒーミンに対して「僕のことは放っておいてくれ」と言い放ってあとはだんまりを決め込んだりと、陽キャな友人にかまってちゃんを発動している。

一方、うぬぼれが強く自己過信気味のおじさん(妹の婚約者ルージン、妹の元雇い主スヴィドリガイロフなど)に対しては、無礼な態度で皮肉たっぷりにやり返すし、自分を追い詰める予審判事ポルフィーリィに対しては、警戒しつつも饒舌に自論を展開する。

そして、アル中おじさん(故)の娘であり、酒代捻出のために娼婦にまで身を落としたソーニャに対しては、超上から目線で発言してくる。信心深いソーニャに「神はいないのかもしれない」だの「神が何をしてくれるんだい」だのと挑発したり、「聖書を読んでくれ」と懇願したり、突然「一緒に行こう。君は僕に必要な人だ」と言い出したり、とにかく尊大である。

 

一巻の注釈によると、「ドストエフスキーには、キリスト教でいう「悪魔」ないし「悪霊」が人間にとりついて、人間性を失わせ、犯罪に走らせるという考え方が固有のものとしてある」とのことで、「ラスコーリニコフの魂を舞台に、神と悪魔の闘争が行われている」そうだ。ラスコーリニコフもそれを自覚している節があり、俺の中の悪魔と日々戦っているようである。それって中二病...

 

読了後に『罪と罰を読まない』の「読んでみた」編を読んでみたところ、各位が物語の感想ではなくドストエフスキーの描写の細かさを絶賛していて、創作側にいる人は着目する点が違うんだなあと感じた。しかし執拗なまでの描写があるからこそ、ラスコの嫌な感じが浮き彫りにされているのだと納得である。