あかねの日記

惰性で続けるブログ

娘の存在を肯定し続けたい

またしても休日は平日より早く起きている。仕事の開放感からだろうか。今日は4:00に布団を出て、一人でゆっくり朝食を食べた。

夫と娘は出掛け、私は半分趣味の掃除をしてから一人で好きに過ごす。土曜日の定番パターン。

今日の午前中はそこに隔週の通院が加わった。特段問題なく、薬は同量を継続。花粉症について相談したところ「薬を出しておきます」とのことだったが、それが処方箋から抜けていることに薬局で気付いた。戻るのも面倒なので、今回はまあいいかと思い、いつもの薬だけ受け取って帰ってきた。

 

娘の通う小学校は昨日が終業式だった。一年経つのが早い。日々の細々としたことに対応し、行事を終えるごとに時間の流れは感じていた。しかし全てが終わった後で「あ、もう終わりなのか」ときちんと認識した。会社の年度替わりの感覚でいると置いて行かれる。

もう娘がこの学年でいることはないんだな。六年間固定メンバーの田舎と違い、全く同じクラスメイトになることはまずないな。担任の先生は来年度も学校にいるけれど、みてもらう機会はもうないかもしれない。小学校との関わりが最低限だった私ですら、少し寂しく感じる。

 

先日、寝る前に娘が「ずっと今の年でいたい」と静かに涙していた。今年度が終わることと、誕生日を迎えることで、感じるところがあるらしい。そりゃあいろいろ考えるわな。生きていると悩むことなんて日常茶飯事だ。

自分が小学生のときを振り返ると、毎日憂鬱だったし、家も学校もはっきりと嫌いだった。「子どもだからといって何も考えてないわけじゃない。馬鹿にするな。理不尽を押し付けるな。私は私だ。」という憤りを、今でも覚えている。

傍目には楽しく過ごしているようだが、今の娘にとって、この家は、学校は、どういう場所なのだろうか。

月並みだし理想論だし、これから何があるかわからないけれど、親としては娘が安心して帰ってこれる家でありたい。嬉しいことも悲しいことも話せるようにしてあげたい。いつでも娘の存在を肯定してあげたい。

 

今の年のままでいたいのか。母だってこのままかわいいままでいて欲しいけど、時間が過ぎるのはどうしようもない。赤ちゃんのときもかわいかったけど、元気に大きくなってよかった。できることが本当に増えた。これからだって、娘がどんな風に成長するのか楽しみにしている。母は大変な目に遭っているけれど、自分で勝手にそうなっているだけなので娘のせいではない。

勉強はできるに超したことはないが、初めからできなくてもいい。誰しも最初は初心者で、失敗しながら学んでいく。人それぞれ能力は違うのだから、他人と比べる必要はない。できなかったことができるようになるのは嬉しいことだ。テストで間違えてもいい。(返却されたテストを見ると、発想豊かな間違え方をしていてなかなか面白い。)運動もできなくていい。母も体育が嫌いだった。

悪いことをしたら怒るし、ぶつかるときもあるし、母は機嫌が悪いときもあるけど、娘が大切だという大前提は変わらない。ずっと一緒にいたいならそうしよう。

10分くらい、取り留めなくそんな話をした。娘は翌日にはケロッとしていた。

 

これは、そうありたいと考えていることを自分に言い聞かせている面もある。親のエゴで自分に無かったものを与えたいだけかもしれない。しかし自分の親と同じことをやってる時もある。そして私は体力も気力も弱々な母である。遊ぶときは遊ぶし、遊ばないときは遊ばない。娘には、ここういう人もいるんだなと参考に留めるのみにしてほしい。

幸いにも娘の性格は夫に似ており、マイペースで切り替えが早い。飽きっぽいけど、好きなことはやはり続く。本当に自分の娘かと時に疑わしいくらい優しく自由な一方で、繊細で引っ込み思案な面もある。もちろん全てを把握・理解することはできないので、あくまでも私の認識の範囲内で。娘と自分はかなり違うので、あまり同一化せず距離を置いて見えていると思っているけれど、どうだろう。

娘には、昔よりも今がいいと思えるようになってほしい。一人でも生きているだけの逞しさを身につけてほしい。でもつらいときは受け入れてあげたい。そういうのも親のエゴかもしれないが。