あかねの日記

惰性で続けるブログ

読書『第二の性 Ⅱ 体験』

昨日今日は『第二の性 Ⅱ 下巻』を読んでいた。全三冊の最後の一冊。長かった。

今までにも本書の有名な一節を目にしたことはあったが、通しで読んでみて始めてその言わんとしていることが解ってきた。

  • 人は女は女に生まれるのではない。女になるのだ。(第一部 女はどう育てられるか)
  • 女の振る舞いが欠陥のかたちをとっているのは、女の状況のせいなのだ。(第二部 女が生きる状況)
  • 女は自分であることと他者であることを同時に引き受ける。(結論)

第一部「女はどう育てられるか」と第二部「女が生きる状況」は、多くの文献を参照しながら女になる過程が描かれている。19世紀あたりの文献が多いため時代差を感じるのと、事例の積み上げが延々と続くのとで、読むには忍耐が必要であった。

第三部「自分を正当化する女たち」では、他者承認・恋愛・宗教により自由を獲得しようとする心理と過程が描かれている。このあたりは今も昔も変わらないと思った。

第四部「解放に向かって」では、第十四章「自立した女」に私にとっては耳の痛い箇所が多くあった。

彼女たちは「仕事 」をもち、それを具体的にやりとげることを証明したいと思っている。だが、仕事の内容にはそれほど関心を持たない。同時に、女は細かい失敗やささいな成功にこだわりすぎる傾向がある。やる気をなくしたり、大いにうぬぼれたりを繰り返す。(中略)こういうやり方をすれば、かなりのキャリアは実現できても、偉大な行動は実現できない。

その一方で、未来が限定されるわけではないことも記している。

大きなことを成し遂げるために、現代の女に欠けているのは、自分を忘れることである。だが、自分を忘れるためには、まず今すでに自分を見出していることがしっかりと確認されていなくてはならない。男たちの世界に新しく入ったばかりで、男からの支援もほとんどない女は、まだ自分を知ろうとすることで手いっぱいなのだ。

また、創造的活動についても割と辛辣に書かれていた。

女の状況からして、女は文学や芸術に救済を求めやすい。(中略)自己に到達できないような世界とは別の世界を創りあげるために、自分を表現したいと思う。

かなり若いときから始めていたとしても、芸術を真剣な仕事と見なす女は非常に少ない。(中略)子どもの頃から人に好かれるよう教えられ、ごまかすことを学ばされてきたので、適当にやって難局を切り抜けたいと思うのだ。

ある種の告白本以上に夢中になれる本はごくわずかだ。しかし、そうした告白は真摯なものでなければならないし、また著者は告白すべき何かをもっていなくてはならない。女のナルシシズムは女を豊かにするのではなく、貧弱にする。何もせず自分ばかりを見つめているので、女は無になる。自分に抱く愛すら紋切り型になる。彼女が自分の作品で見せるのは、自分の本来的体験ではなく、決まり文句で建てられた想像上の偶像なのだ。

しかし、最後の「結論」では、今こそ女にあらゆる可能性を自由に追求させる時であると語っている。現代では男女平等参画のように公言されている内容だが、この時代においては先駆的だったことがうかがえる。

 

そしてこの本は、巻末の「旧版訳者あとがき」「訳者あとがき」「解説」がとてもよかった。ただの裏話のようなあとがきや、感想文のような解説とは違う。内容をコンパクトに整理し、理解を助けてくれる。

特に、断定的な言いかたに感じていた「〜である」(être)には、「〜になった」という結果や「〜された」という他動詞性が含まれている、というのが腑に落ちた。特に現象学ではそういう使われ方がされるらしい。知らなかった。

ボーヴォワール自身は「自分が女であることに障害や劣等感はない」と思っていたらしいが、強迫観念、神経発作、神との一体化願望、死の想念などの症状に見舞われ、実際は苦悩に満ちていたそうである。

解説で述べられている「エッセイとは、すでに整理された情報やよく練られた考えを発表するのにふさわしい形式ではなく、学んだり調べたりした知識をその場で吟味していき、筆者みずからの思考を試すのに適した形式」というのにも納得のボリュームだった。