あかねの日記

惰性で続けるブログ

制限の中に自由がある

娘に続き、夫も帰省した。お盆の時期に家に独り。東京の地にお参りするようなお墓は無く、時の流れに身を任せ淡々と暮らしている。

夫は早朝の飛行機を予約していたので、めずらしく早起きして始発で羽田空港に向かった。

私はいつも通り五時頃に起きて、朝食を食べ、洗濯物を干し、食器を洗う。一人になったタイミングで週末掃除をしようと目論んでいたので、キッチンを磨き、掃除機を掛け、フローリングの拭き掃除もした。台風の影響で雨が吹き込んできそうなので、窓とベランダはまた今度。

 

娘が夫実家に行ってからというもの、家のなかは山奥の禅寺のような静けさである。夫と「老後はこんな感じかもしれない」と言いながら過ごした。なかなか悪くないと思うよ。

何をやってもスムーズに進む一方、あっけなく終わってしまい拍子抜けすることも。特段意識することはなかったけれど、日頃からバッファの時間を見込こみ、作業を効率的に行うよう、自分なりの最適化を図っているものだと気付いた。

また、普段はいかに子どもにリソースを割いているかも実感した。一緒にいるときはもちろんのこと、いないときも段取りを考えたり物品の準備をしたりで、案外手が掛かるし気を取られている。休まらないのも仕方なし。

そして、娘の作業開始/終了待ち時間、モチベーション低下時の対応、自分の作業に対する割り込み発生で、体力・思考力・精神力も地味に削られる。前はそれにイライラすることが多かったけど、最近は「お母さんは疲れている」「今はできないけど後でならできる」と理解を求めるスタイルになってきたかな。

しかし、いつもいろんなことを話してくれる存在が突然いなくなると、ふとした瞬間に寂しさを感じる。私が普段一番会話をする相手は、上司でも同僚でも夫でなく、娘だ。ともすれば他人との関りを最低限よりも狭めてしまいがちな私が、かろうじて周囲とのつながりを保っていられるのは、間違いなく娘のおかげと言える。

以前ブログに、毎晩寝る前にこれまでの娘の写真を見ていることを書いた。今は毎週土曜に落ち着いている。毎日は大変なので、交渉して減らしてもらった。ずーっと地続きで成長してきた感じがあったが、生まれたばかりの写真と今を比べると、ぴょんと飛び越えてきたような感じもする。思い出もちょっとずつ古くなっていくものだな。

 

 

夫が帰省してからは、毎日のマイルストンが完全フリーになってしまった。だらだらと過ごしているうちに、大きく時間がずれていく。自堕落な私が社会的・文化的・健康的な生活を営むためには、あの二人がいないとダメなのだ。

やるべきこと・やらなければならないことのある方が、生きやすい場合もある(考えるのを止めてただ従うと意味ではなく、自分が考えて出した結論に付随することをやるという意味で)。同じように、働くことは大変だけど、働かないというのも考えられない(でも自分へのプレッシャーはほどほどに)。

そういった制限があるからこそ、自分の時間で何をするか、休みの日に何をするかを大切にしたいと思う。家族で楽しく過ごすもよし、一人で出掛けるもよし、ゆっくり過ごすもよし。また、時間が限られていなければ、好きなこともやらないままになっていたと思う。

今も限られた自由だからこそ、だらだらした生活を楽しめるのだ。休み明けからは仕事が始まる。私は「まだ半分」よりも「もう半分」の思考が強いので、時間の流れがもっと遅くなればいいのにと思いながら一日一日を過ごしている。